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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第1節 雨の予感 [2]




 霞流慎二という富丘の貴公子に媚を売り、色目を使っているという話を流したのは緩だ。案の定、美鶴は校内で散々な目にあっている。嗤われ、馬鹿にされ、ヒマさえあれば嫌味の雨アラレを降り掛けられた。あまりの仕打ちに、噂が広まった当日は、一時間目が終わったのと同時に学校を飛び出したと聞く。このまま休校して退学でもしてしまうのではないかとすら囁かれた。だが彼女は翌日、平然と登校してきた。しかもその後は、周囲からの嘲笑にもまったく動じてはいないらしい。大迫美鶴は、たった一日で体勢を立て直してきたのだ。
 霞流への色目疑惑には完全黙秘を通しているが、その態度があまりに毅然としているため、噂はデマなのではないかとすら言われ始めている。
 デマなんかじゃないわ。だって私、本人から聞いたのですもの。
 廊下の窓が開いている。湿った空気が喉を撫でる。外を見上げる。西の空が少し暗い。帰るまでもつだろうか? 今週中には梅雨入りするのではないかと言われている。大迫美鶴の噂は、雨と共にどこかへと流されてしまうのだろうか?
 このままこの話は終わり? そんなのないわよ。あんな、瑠駆真様を誑かしておきながら別の男性にも手を出している浮気女をこのまま野放しにしておくなんて。
 だが緩は、さらなる噂を広める事には躊躇している。噂を広めたのが緩だという事実がバレたら、それはそれで困る。一番困るのは、瑠駆真にバレる事だ。
 大迫美鶴の魔術に囚われたままの彼は、きっと噂を広めた緩を責めるだろう。それに、広めたのが緩だという事が大迫美鶴にも知れれば、仕返しとばかりに自分の密かな、しかしなくてはならない楽しみを校内にバラされる可能性がある。しかも彼女は、緩が幸田(こうだ)にゲームの衣装の製作を依頼している事まで知っているのだ。コスプレ好きだなどといった誤った情報を流されてはたまらない。
 悔しいけれど、これ以上は安易には動けない。
 大迫美鶴、どうしてくれよう。
 真偽のほどは確かではないが、緩の王子様である山脇(やまわき)瑠駆真は、夏休みにラテフィルという中東の小国へ帰ってしまうというらしい。ひょっとしたら、そのまま日本へは戻ってはこないのかもしれない。なぜならば、その帰国には花嫁が伴うから。
 瑠駆真様、本当に大迫美鶴を連れて行くのかしら?
 それだけは絶対に阻止したい。でも、どうすれば。
 緩はイライラと指の爪を噛みながら、早足に廊下を歩く。
「カッコイイでしょう。そのうえ脩斗様はね」
 同級生が弾むような声をあげながら下級生に心を蕩かせているうちに、緩は退散する事にした。





 (さとし)は駆け抜けるように改札を通過した。駅の外へ出ると、ほとんど走りだしていた。
 彼を急きたてるのは怒り。悔しさも相俟(あいま)って、走って体力でも使わなければ、何かの拍子に内に籠った感情がどこからか噴き出してきてしまいそうだ。
 向かうのは美鶴のマンション。聡がこれほどに興奮するのは、美鶴絡み以外には考えられない。
 もちろん里奈(りな)に対しても不快な感情が無いワケではない。
 数日前、駅舎に霞流(かすばた)慎二(しんじ)が現れ、聡をからかい美鶴を見下して去って行ったあの日、帰り道で小窪(こくぼ)智諭(ちさと)が車で美鶴を連れ去ったあの日、家に帰ると母の機嫌が異常に良かった。春休みに進路の件で軽くモメて、それ以来ずっと気まずい雰囲気が続いていたのに、その日はヤケにご機嫌だった。
「お帰りなさい。風が結構キツかったけど、体冷えてない?」
「は?」
 そんなに風、キツかったっけ?
 思わず窓の外を見た。
「それとも逆に暑かった? 風があっても気温は高いから、汗でも掻いたんじゃない? シャワーでも浴びる?」
「はぁ? いいよ」
「そう?」
 言いながら母の育代(いくよ)はいそいそと冷蔵庫から炭酸飲料のペットボトルを出してきた。
「冷やしておいたのよ。飲むでしょ?」
 ご丁寧にコップまで出してくる母に、聡は思わず身構えた。
 なんなんだよ? いつもはジュースやスナック菓子に手を出すたびにあれこれと小言を口にするクセに。
 そんな暇があるなら勉強しなさい。次の数学、大丈夫なの?
 まるで録音されたボイスレコーダーでも再生しているかのよう。毎日毎日でうんざりする。
「どうしたの? 突っ立ってないで座りなさいよ」
 ダイニングの椅子を引いて勧めてくる。ますます気味が悪い。
「いいよ」
 口を尖らせてそのまま階段へと向かう。
「あら、もう上へ行くの?」
「なんだよ、いつもは勉強勉強って追い立てるクセに」
「たまには息抜きも必要だわ。聡も最近は頑張ってるみたいだし」
 なんでそんな事がわかるんだよ。俺の事なんて、大して知りもしないクセに。
 反感と共に階段を一段登った。その背後から弾むような声。
「聡、まだ田代(たしろ)さんとお付き合いがあったのね」
 二段目に足を乗せる事ができなかった。
「田代さんって、お父様が銀行にお勤めになっている方よね。お母様のご実家も名家で、田代さんも成績良かったし、テニスも上手だったわよね。小学校の時の事しか知らないけれど」
 心なしかいつもよりも声が高い。
「テニスは辞めてしまったみたいだけれど、色白になっても可愛くって品の良い子ね。お母さんビックリしちゃったわ。ねぇ、聡、聞いてるの? これ、部屋で飲む? 持ってってあげましょうか?」
 母の問いかけにも、聡はしばらくは反応ができなかった。
 田代が家に来た。しかも家にあがりこみ、母と話した。
 何しに来たのだ?
 母の話では、自分に用があったのだという。
 俺に? 何の用だ?
 その内容も気にはなったが、やたらと機嫌の良い母の態度が気に入らなかった。里奈の来訪を、それはそれは喜んでいるようだった。
「お父様、銀行の役員でね、でも海外勤務が多くて家を空ける事が多いって、小学生の頃によく聞いたわ。今でもそうなのかしら? お父様がいないと、田代さんも淋しいわよねぇ」
 やたらお父様のお話が多い。
「でもお母様のご実家が近くだからいいわよねぇ。田代さんのお母様のご実家ってね」
 お母様のご実家のお話もやたらと出てくる。







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